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  3. 2018.7.13

My hero, Yukie Chiri私のヒーロー、知里幸恵

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私は12歳のとき、姉妹たちと自転車で、北海道の旭川にある自宅からそれほど離れていないアイヌの居住地・近文へ行っていた。アイヌのお土産屋さんを探索したり、アイヌの職人が作品を作っているところを見るのが大好きだった。その頃、私は近文が若き翻訳家の知里幸恵さんの故郷だったことを知らなかった。知里幸恵さんは、その後何年もたってから、私の翻訳家としてのキャリアに刺激を与えた。

知里幸恵さん(1903-1922)は、政府の政策が、アイヌの人々の言語と習慣を根絶し、アイヌの人々を日本の社会の多数派と同化させようとしていた頃に育った。アイヌの人々で母語を話す人は減っていき、アイヌの文化の多くは忘れ去られつつあった。

幸恵さんは近文に6歳のときに移り、アイヌの口承文学を守っている数少ない人々のうちの2人であったおばと祖母と一緒に暮らした。この稀な住環境に加え、幸恵さんの生まれ持った知性は、アイヌの子どもたちに一般的だったものよりもさらに多くの教育の機会を開いた。彼女はアイヌ語と日本語の両方を流ちょうに話し、彼女の年代では稀なほどだった。

幸恵さんは、10代半ばに、日本の言語学者の金田一京助さんと、彼が北海道でアイヌ語のデータを集めていたときに出会った。彼はすぐにその若い少女(幸恵さんのこと)の才能に気づき、自分の研究を手伝ってもらえないかと彼女を東京に招いた。しかし、幸恵さんは、心臓の疾患のため、移動が難しかった。そこで、金田一さんは、彼女に白紙のノートを送り、アイヌの言葉と文化についての彼女の所見を記録してくれるように頼んだ。

幸恵さんは、「ユーカラ」と呼ばれるアイヌの叙事詩をノートいっぱいに書いた。祖母から学んだものだ。アイヌ語は記述式の言語体系を持たなかったので、幸恵さんはローマ字を使ってアイヌ語の発音を書き起こした。どの「ユーカラ」にも、彼女は自身による素晴らしい日本語の翻訳を添えた。この翻訳は、アイヌ語の原文の上品で音楽的な性質を保っていた。

1922年5月に、幸恵さんは最終的に東京へ行く決心をした。そこで、彼女は「ユーカラ」の仕事を続け、金田一さんのアイヌ語の研究を手伝った。9月18日に「ユーカラ」の詩集を完成させた。東京へ到着してから6ヵ月後のことだった。その夜、ペンを置いてからわずか数時間後に、19歳だった幸恵さんは心不全で死去した。

幸恵さんは、東京に住んでいる間、日記をつけていた。日記では、アイヌ民族であることにどう彼女が苦しんでいたか、自身のアイデンティティーにどう悩んでいたか、そして、どのようにして自身が受け継いだものに尊厳を持てるようになっていったかが明らかにされている。彼女は、アイヌの文化と言語を守る運動の先駆者だった。そうすることを通じて、彼女は、計り知れない個人的犠牲を払い、多くの人々にとってインスピレーションの源となった。

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