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  3. 2018.9.28

Ginko’s choices日本初の女医、荻野吟子のさまざまな選択

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私たちの選択は、私たちがすでにどんな人物になっているかを示しているだろうか? あるいは、そうした選択は私たちがいずれなる人物を形成するのに役立っているだろうか? 私たちの選択が自分たちの人格をどのように形成するか、あるいはどのように変えるかについての問いは、何世紀にもわたって議論されてきた。しかし、人々が選択についての話をしているのを耳にするとき、私はいつも、日本で初めて西洋医学の資格を持った女性医師となった荻野吟子(1851-1913)を思い出す。

荻野さんは、最初の夫から性感染症をうつされ、これにより離婚することになった。この病気により、彼女はひどい痛みに苦しみ、不妊になってしまった。彼女は男性の医師によって施された侵襲的な治療にも屈辱的な思いをさせられた。

彼女は日本には女性の医師が必要だと強く思った。医学の学校へ志願することに決めた。女性の学生が医学の学校に入った前例はなく、彼女の決定を支えることを家族は拒んだ。しかし、荻野さんは自分の目標を達成するために個人的な、またお役所的な大きな障害を乗り越え、日本で資格を持った女性医師になる道を切り開いた。

35歳で荻野さんは東京に女性の診療所を開き、とても人気になった。彼女は日本の保健教育運動のリーダーとなり、当時の女性に影響を与えていた多くの問題で積極的に活動した。彼女は、東京の急速に移行する社会の変化の一部だった。しかし、その時、彼女は重大な決断をした。

仕事の成功の絶頂で、荻野さんはキリスト教の神学校の若い学生だった志方之善と再婚することを選んだ。彼の夢は、北海道の原野にキリスト教的な農村を設立することだった。荻野さんはその夢を支えたかったため、診療所を閉じて、遠く離れた北の地へ夫と一緒に移った。

自然のままの原野での生活は、想像していたよりも厳しかった。仲間の多くが命を落とした。結局、二人はこの計画を断念しなければならなくなった。二人は養子として迎えた娘とともに、沿岸部の瀬棚という町へ移住し、そこで荻野さんは苦労する家族を支えるために診療所を開いた。

しかし、時代は変わっていた。荻野さんはもう女性の医師として珍しい存在ではなくなっていた。自身の職業において最先端の存在ではなくなっていたのだった。東京とは違って、北海道では彼女は有名ではなかった。夫は1905年に47歳で亡くなった。荻野さんはその3年後、ついに東京に戻った。荻野吟子さんはひっそりと亡くなった。62歳だった。

荻野さんは自身の選択について、友人からも家族からも厳しく非難された。しかし、彼女はだれかに認められたり、歴史を作ったりするために、自身の選択をしたのではなかった。彼女は、自分の倫理基準に従って選択をした。そうした選択は、彼女を有名にし、その後、有名だった状態からどちらかといえば注目されなくなる状態にした。しかし、彼女は忘れられることはない。私もその1人で、現在の女性の尊敬に値するロールモデルとして彼女を思い起こしている。

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