普段は冷静な友人のダイアンは最近、パニックになった。
持ち帰りの夕食とコーヒーを買いに家の近くの飲食店へ歩いていった―マスクを付けずに。4月中旬から、シンガポール政府は自宅外でのマスク着用を全員に義務付けている。免除されるのは、激しい運動をする人と2歳以下の子どもだけだ。私たちは職場でもマスクを着けたままでいる。
その飲食店へ向かう途中、ダイアンはたくさんの人を通り過ぎた―みんなマスクをしていた。誰も彼女に注意を払わなかった。ダイアンがフードコートで夕食を注文すると、その屋台の店主も、彼女がマスクをしていないことに気付いていないようだった。持ち帰りの夕食を手に、ダイアンは持ち帰りのコーヒーを買いにカフェへ歩いていった。カフェの店長は、ダイアンの心臓をバクバクさせる質問をした。
「マスクをお忘れになりましたか、お嬢さん?」
ダイアンは気落ちした。もし捕まったら300シンガポールドル(約23,000円)の罰金を科されるリスクがあるからというよりも、マスクを忘れたことに罪の意識を感じたからだ。結局、マスクをみんなが着けていれば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染リスクは著しく低下することが研究で示されている。
シンガポールの多くの人々と同じように、ダイアンはウイルスの感染拡大を食い止めるために私たちみんなが役目を果たさなければならないことを分かっていた。特に、誰もが無症状の感染者となり得ることから、マスクの着用は重要だ。私たちの多くは、他の国々でのマスクに反対する抗議に当惑している。そうした国々では、マスク着用が自由の侵害だと考えている人もいる。
ありがたいことに、このカフェの店長は親切で対応も早かった。店に予備のマスクがあり、彼はすぐに1枚手渡してくれた。ダイアンはすぐにそのマスクを付けて、彼に過度にお礼を言った。それ以来彼女は、家を出るとき必ず少なくとも1枚はマスクをかばんに入れている。
今では、ダイアンはマスクをしていない人に声を掛ける可能性が高くなった。彼女は私に「今まではマスクをしていない人のことを無視していた。わざとルールを無視しているんだろうと思っていたから。今ならたぶん、そういう人のところまでいって、マスクを忘れたのか尋ねて、必要なら1枚手渡す」と言った。
たぶん、知らない人に近づいて行ってこう言うのは簡単ではないだろう。同じような状況で、例えばバスの乗客が向かい側の席に足を乗せているときなど、人々は見て見ぬふりをしがちだ。そのルールが法律で義務付けられていようと、暗黙の社会的慣習であろうと、それは変わらない。シンガポールの私たちのほとんどは、対立を避けることを好む。しかし、おそらく、丁寧に笑顔で言うとしたら、私たちはそれを対立として捉えるべきではないだろう。相手方は親切に思い出させてもらったことを喜びさえするかもしれない。