11月半ば、ニュージーランドの母が私に写真を送ってくれた。「これ、覚えてる?」と母は聞いた。よく見てみると、それは、私たち家族がマレーシア料理の屋台をウェリントンで共同経営したころの古い手描きの看板だと分かった。
最初に思ったことは「わあ、なんて懐かしい!」だった。90年代初め、私たちは食べごたえのある食事を2.8ドル(約200円)から提供することができた。私たちの店では、菜食のメニューさえ、それが流行の選択肢になる前からあった。私たちの質素な屋台は、当時、ウェリントンではかなり数少ないマレーシア料理の店の1つだった。今は、市の中心部では数メートル行くごとにマレーシア料理が手に入る。
その1枚の写真は本当に記憶を蘇らせた。むすっとした10代の若者だったころ、私は屋台を手伝うのが好きではなかった。一日の終わりには食べ物のにおいがしたものだった。それに、人が皿の上の料理を手つかずのまま残すのを見ると悲しかった。だが、スパイスの効いた食べ物の良さが分かるようになったのは屋台で働いていたときだった。ナイフの持ち方、肉の切り方、野菜の用意の仕方を学んだ。お金の取り扱い方も学んだ。カスタマーサービスの重要性も知った。厄介な客が来ることもあって、母はよく、英語から広東語に切り替えて、そういう客の対処の仕方を私に教えてくれたものだった。このことから、人は何を言っているか理解していなくても、自分のことについて話されているということを見分けることがいつもできるということも知った。
日本料理を初めて味わったのは別の屋台からだった。どらやきの屋台を経営していた若い日本人の女性がいた。彼女は注文に応じて1つずつ作っていて、完全に集中した表情をしていた。マオリ族の女性と彼女の日本人の夫もまた、小さな日本料理のレストランを経営していた。私が初めて寿司を食べて、絶対にアボカドではない、すり潰された緑色のペーストの危険について知ったのはそこでのことだった。
最初の屋台の場所では、建物の所有者が1つのラジオ局からしか音楽をかけなかった。そこでリピート再生で聞いた全ての音楽が私のカラオケで歌う曲に影響を与えたとのはかなり確実だと思う。別の場所に移った後、私に別の種類の音楽を紹介してくれたのは、私たちの屋台の向かい側の小さな家族経営の宝石屋の屋台にいた若い男性だった。たくさんのニュージーランドのバンドとグランジ(音楽ジャンルの1つ)を発見したのは彼を通じてだった。
当時を振り返ると、私は間違いなく、出会った人々や経験を当たり前のものだと思っていた。当時は、しぶしぶ親の仕事を手伝っていると思っていた。そうではなく、私の方が助けられていたのだった。こうした全ての経験は過去にあったことだが、それらは私が今ある私になるのを助けてくれた。そして、そのことに対して、私は本当に感謝している