最近、ある物に自分が置いている価値についてたくさん考えている。
例えば、もし家が燃えてなくなったら、どんな物を守ろうとするだろうか?
どれも同じ重さ、持ち運びやすさで、持っていくものは1つしか選べないとしよう。
私に喜びをもたらしてくれるもの、例えば、昨年買ったスノーボードとか、新型コロナウイルスのパンデミック中に私を絶えず楽しませてくれたテレビのようなものだろうか?
それとも、もっと実用的なもの、例えば、数ヵ月前に妻と買った新しいほんの少ししゃれた冷蔵庫のようなものだろうか? たぶん、実用的だがつまらないものかもしれない。例えば、洗濯機のような。
最終候補のリストには感情を揺さぶるアイテムもたくさんあった。
しかし―デジタル保存のおかげで―写真は最終候補に残らないだろうと思う。
誤解しないでほしいが、大切にしている家族や友人、旅行の思い出の写真はある。でもありがたいことに、そうした写真は全てデジタル化してバックアップを取ってある。
それは間違いなく良いことだ。この質問を30年前に考えていたら、貴重な写真のアルバムは守るべきアイテムの最終候補のリストのトップか上位に入っていただろう。
それでも、デジタル保存の恩恵にもかかわらず、そのせいでかつては大切に思っていたかもしれないものを低く評価するようになっているのではないだろうかと思わざるを得ない。
日常生活の中でたくさんの写真を撮っていて、かつては1枚1枚の写真がどれだけ貴重だったかを忘れやすい。1世紀前には1枚の肖像写真を撮ることは一大イベントだった。つい最近の1990年代でも写真は値段が高く、フィルムロールだったために、撮れるのは現像するのに時間とお金がかかる二十枚ほどの写真に限られていた。今では、24枚の写真を撮ってウェブサイトにアップロードするくらい朝飯前にできてしまう。
最近、写真は今なお大いに価値があると思い出した。あと2ヵ月以内に私たちの第1子が生まれる予定で、妻と私はプロの写真スタジオでマタニティフォトを撮ってもらうのに適切な時期だと判断した。自撮りスティックは必要ない!
お察しの通り、これは安い試みではない。最終的な請求書が提示されたときに私はあぜんとしていたと思う。しかし、その値札を乗り越えたら―それに私たちのスマートフォンで撮影されたものと比べた写真の品質を目にしたら―私はお金をかけてものすごく良かったと思った。
もちろん、帰宅して真っ先にしたことは、紛失したり、破損したりしないように、クラウドに画像をアップロードすることだった。
スノーボードも同じようにできたらいいのに!