日本のカレーを作る標準的な方法があるだろうか?シンガポールのカレーはどうだろう?
多くの国々にそれぞれのバージョンのカレーがある。ドライカレーだったり、汁気のあるカレーだったり、菜食向けのカレーだったり、そうでなかったりする。スパイスの組み合わせも、同じ国の中でさえ、さまざまだ。
日本のカレーは甘口になる傾向があり、たいていニンジンとじゃがいもを入れて作られている。だが、もし私たちが鶏肉の代わりに魚を使ったらどうだろうか?あるいは、ニンジンの代わりにオクラを使ったら?その料理はそれでも日本のカレーとみなされるだろうか?
私がこのことを考え始めたのは、シンガポールの人々が突然、シンガポールのカレーとは何かについて話し始めたからだ。それは、ニューヨーク・タイムズ紙が「シンガポール・チキンカレー」のレシピを同紙の料理サイトに1月に掲載し、料理の動画をインスタグラムに投稿したときに始まった。
そのレシピは、ジャーナリストのクラリッサ・ウェイさんがシンガポール人のシラ・ダスさんのレシピからニューヨーク・タイムズ向けに作ったものだった。シラ・ダスさんはインドとベトナムの系統を受け継いでいる。
多くのシンガポール人はこのレシピに反論した。このレシピには、鶏肉をライム果汁に漬け込む、パンダンリーフを炒めた食材に加えるといった手順が含まれていた。これら2つの材料はシンガポールのカレーに典型的に入っているものではない。
掲載された料理が比較的色が薄くて水っぽく見えるとからかった人たちもいた。ソーシャルメディア上では、「あれはカレーじゃない。あれは排水だ」、「これはカレーに対する侮辱だ」と言う人たちもいた。
動画の中のカレーは私がこれまでに食べたことのあるものを思い起こさせるものではなかったことは事実だ。だが、そもそも、「シンガポール・チキンカレー」を定義することは果たして可能だろうか?シンガポールにはさまざまな民族がいて、それぞれに独自のカレーのレシピがある。批判的で、あからさまに意地悪であることの多いコメントを読んでいて、私はだんだん不快感を覚えていた。
シンガポール人の料理人で料理本の著者であるパメリア・チアさんは、彼女のインスタグラムのアカウントへの投稿でこれを最も的確に言い表していた:「誇りを感じることと、新しいものを頑なに認めないことの境界線はとても曖昧になりがちだ。私たちの食べ物をそれほど猛烈に守ることは、その周りに厳格な線引きをすることによって、私たちはその消滅に気づかずに貢献しているのではないだろうか?若い人々は伝統料理を作って共有する気が起こるだろうか?…バカにされて、『本物ではないこと』で非難される文化における自分たちの試みを。ある料理を、それを食べて大人になったときにしか、人はその料理を『教える』ことができないのだろうか?」
チアさんはさらに、「シンガポールのカレーにはとてもたくさんのバリエーションがあるからと、人々は彼女(ウェイさんのこと)を『シンガポール・チキンカレー』というフレーズを使ったことでこき下ろしているが、しかし同時に、そういう人々はそのレシピが自分の頭の中にある料理の固定観念から外れていると責めている」と続けた。
レシピは、食文化が常に進化しているのとちょうど同じように、時と共に変化していく。食の伝統を守ることは重要ではあるが、もしたとえそれが私たちが知っているものと異なっていても、そしてもしかするとその場合は特に、新しいアイデアや手法にオープンであり続けるべきでもある。私たちの食文化はそれがあるからこそ確実にいっそう良くなっていくだろう。