日本では桜の季節が終わってからずいぶん経っているが、春が日本よりも少し遅れてやってくるオンタリオでは最後のわずかな花が今でも地面に散らばっている。
1980年代後半に私が記者として最も早い段階でした仕事の1つは、地元の新聞『ザ・ポート・ドーヴァー・メイプル・リーフ』向けのものだった。私がそこに住んでいたとき、ポート・ドーヴァーは、トロントの南へ約130キロのところにあるエリー湖の北岸ののんびりとした小さなリゾートの町だった。1920年代と30年代には、ここは富裕層に人気の夏を過ごす場所だった。
私が“コービー”・コバヤシさんに出会ったのは、彼が80代のときだった。彼は1920年代の初め、キリスト教に改宗したことで家族に勘当されて、10代のときに九州からカリフォルニアへやってきた。やがて彼は、夏をポート・ドーヴァーで過ごしていた裕福な未亡人の運転手と庭師の仕事を見つけた。女性は亡くなったとき、コービーさんにささやかな相続財産を残した。それは、町に小さな食料品店を開くのに十分な価値だった。
その後、戦争が起こった。真珠湾攻撃の後、『ザ・ポート・ドーヴァー・メイプル・リーフ』紙はコービーさんとの仕事を拒絶した。数週間後、コービーさんは逮捕された。彼が持っていたものは全て政府に没収され、競売にかけられて格安で売られた。そしてそのお金は、コービーさんが戦争中に過ごしたブリティッシュコロンビア州の道路建設収容所でのコービーさんの給養の支払いに充てられた。
私がコービーさんにインタビューしたとき、その収容所で過ごした時期のことと、不十分な食事と冬物の衣類、施設のお金を自腹で支払わなければならなかったことについて、彼は悔し涙を流した。被収容者の扱いはあまりにもひどく、1946年には約2万2,000人の日本人のうち6,000人ほどが―その多くはカナダで生まれ育っていた―日本に移住するほどだった。
しかしコービーさんはポート・ドーヴァーに戻ってきて、農場労働者と漁船の甲板員として働き、自分の食料品店を買い戻すのに十分な額のお金を蓄え、そうこうするうちに、村有数の市民の1人になっていた。
1988年、カナダは日本人収容者とその家族に正式に謝罪した。カナダ政府は、生き残った1万3,000人全員に1人2万1,000ドルを支払うことを含めた補償案を可決した。
コービーさんは彼に支払われた補償金を日本から24本の桜の木を輸入するのに使った。彼は、この桜の木々を小さな公園に植樹するため、町に寄付した。
桜の花は人生の美しさと幸せのはかない本質を象徴していると言われるが、この話には別の側面がある。桜の花はコービーさんに九州で過ごした子ども時代だけではなく、永遠に続く苦難はないということも思い出させてくれた。彼は主に、この桜の木々が平和を記念するものとして、そして、何年も前にとても多くの人々に対してなされたことに対する許しの象徴として立ってくれることを望んだ。これがもう二度と起こらないことを願って。