あなたがこれまでの人生で決めた最も影響力の大きな決断について思い起こしてみよう。その決断をする背景にはたくさんの考えがあっただろうか、それとも衝動的なものだっただろうか? その決断は、人生をどのくらい劇的に変化させただろうか?
最近私はポッドキャストで、友人たちと数ヵ月間同じ場所に毎日スノーボードへ行っていた10代の若者の話を聞いた。ある朝、彼は少し疲れている感じがしたので、友人たちと一緒に行かないことに決めた。その決断が彼の命を救った:彼の友人たちはいつもの雪の斜面へ行き、不幸にも雪崩で死亡した。
似たような話は世界中に数え切れないほどある。
9.11の攻撃でハイジャック犯が衝突させた飛行機の1つに乗り遅れたおかげで―あるいは、寝坊したりして、ワールド・トレード・センターにある職場に行くのが遅れたおかげで―どれだけ多くの人々が現在生きているだろうか?
私にも危うく災難に遭うところだった出来事がいくつかある。2002年に私はバリのクタにあるナイトクラブ「サリクラブ」にいた。それは、200人以上が死亡した爆弾攻撃のちょうど1週間前のことだった。2004年には、東南アジアの多くの沿岸地域を壊滅させた津波の4日前に、スリランカへの1ヵ月の旅から日本に帰国した。これらは危うくの災難に遭うところだったと私が気付いている出来事でしかない―私が知りさえしないものはもっとたくさんあるかもしれない。
違った形の結果につながった決断もある。2004年3月に、私は友人たちに会いにバーへ行き、それは最終的に結婚をして子どもが生まれるという結果につながった。私の将来の妻に会う私に至るまでの複数の瞬間は偶然に起こった:混雑したバーでトイレに行く途中、旧友にばったり出会い、彼女が友人を私に紹介してくれた。この先はご存じの通り。だが、あのバーに、あの夜に、あのとき行かないことを決めていたとしたら、どうなっていただろうか? あるいは、もし私があの特定の瞬間にトイレに行っていなかったらどうだっただろうか? 今、私の人生はどう違っていただろうか?
私たちは、重要な決断だと考えている物事―何を勉強すべきか、どこの学校へ進むべきか、どのキャリアに進むべきか、どこに住むべきか―について気に病んで人生を送っているが、最も重要な影響を及ぼした決定のいくつかはあまり意識的な思考をせずに決められているということを私たちのほとんどは知らない。
もしも右ではなく左に曲がっていたとしたら、今あなたの人生はどうなっていただろうか? もしこの科学者やあの発明家が革新的な発見をする前に死去していたとしたら、世界はどうなっていただろうか? ある若者が成長して希代の天才になる前に死去してしまったために、今の世界はどう変化しているだろうか?
真実は、何百万回ものあの決断が総合的にあなたを、この文章を読んでいる今このときのまさにこの瞬間に至らせたということだ。