それは、やや寂しく見えた。平皿の上で、塩漬け卵を使ったソースが付いた部分にブタのリブ肉の最後の一切れがある。
「私たちはそれを『遠慮のカタマリ』と呼びます」と私の日本人の元生徒が言った。彼女はシンガポールにいる姉妹に会いに、京都から飛行機で来ていて、私たちは一緒に夕食を食べた。食事を終えるところだったので、リブの皿を除くほとんどが空だった。リブ肉は9切れあって、私たちは4人だった。食べるのは2切れまでとみんなが配慮していたようだ。
私は「シンガポールでは、これを『paiseh piece』と呼んでいます」と言って、クスクス笑った。
シンガポール英語でよく使われる「paiseh」は、「気まずい」または「恥ずかしい」という意味の福建語だ。例えば、私たちは「ケーキの最後の一切れを取るのは『paiseh』な感じがする」などと言う。私たちはこの言葉を、「すみません」という意味で、何か頼みごとをするときに文の最初に使うこともある。例えば、「Paiseh、少し詰めて、あと1人分スペースを開けてもらえますか?」
食べ物を分け合うときに、paisehは「paiseh piece」の形でよく現れる。オフィスの食品庫で、クッキーが1枚だけ残っているクッキーの瓶を見かけるかもしれない。結婚式のディナーでは、テーブルにいる全員が大皿から食事を取り、他の人々をあまりよく知らないときは特に、「paiseh piece」がきっと出現する。
他の文化でも「paiseh piece」の独自のコンセプトがあるのかどうかオンラインで調べてみた。どうやら、「遠慮のカタマリ」は主に関西で使われることが多いようだ。日本以外では、同じような言葉がタイとスペインにある。文化の異なる人々が、食事中に他の人に対して同じような心遣いを示しているのは素敵ではないだろうか? 呼ぶ名称は異なるかもしれないが、同じ思いやりを私たちみんなが共通して持っているのだ。
津軽では、最後の一切れを取った人が「津軽のヒーロー」と呼ばれるのを知ったときも面白いと思った。最後の一切れに対する、なんと愉快でポジティブな見方だろうか! 確かに、皿の上にある最後のひとかけに手を伸ばすのは勇気がいる。たぶん、あるいは特に、それが好きな食べ物なら自分の心(あるいは脳)に従うのが難しく感じる。
ここでもまた、「paiseh piece」は過去のものになるかもしれない。最後に残った1人分を自分で取って食べたり、自分の取り分以上の分を取って食べたりするのも、Z世代の同僚はためらわないのだと、ある友人が私に教えてくれた。あるクライアントが、10人いる彼らのチームにシュークリームが10個入った箱を送ってくれたとき、1人の同僚がシュークリームを2つ取ったそうだ。私はそれには心を乱されると認めずにはいられない。私たちは過度に配慮するべきではないが、公平感を持つことは重要だ。